コラム
Column
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1.医療機関における債権管理の必要性と民法改正
このところ,医療機関から,診療費請求に関する院内マニュアルの整備(見直し),未収の診療費をどのようにして回収するかといったご相談や,回収のご依頼を受けることが増えています[1]。患者にきちんと診療費を支払ってもらうことは,医療機関の収入確保のために必要であるだけでなく,未納の診療費を削減することによって効率的な債権管理を行うことが可能になりますし,経営の透明性の確保にも繋がります。従って,診療費の回収は医療機関にとっては重要な業務ですが,医療機関に債権管理のための専門部署が置かれることは稀で,職員の方々が本来業務を行う傍らで,診療費請求等の作業を行っていることが多いと思われます。
ご承知のとおり,2020年4月1日に施行される改正民法では,時効期間が見直され,これまでは「医師・・の診療に関する債権」(旧民法170条1号)として3年という短い時効期間(短期消滅時効)が定められていた診療費請求権について,他の一般的な債権と同じ時効期間と定められました。短期消滅時効の制度は,約120年前の社会制度を前提に設けられ現在では合理的な理由がないため,改正民法で廃止されたものです。また,医療機関は,患者やその遺族から,医療過誤があったとして損害賠償請求を受けることもありますが,改正民法では,この損害賠償請求権の時効期間の見直しも行われました。
診療費請求権の時効期間が延長されることから,各医療機関では,診療費請求に関するマニュアル等の院内ルールを見直すとともに,関連資料の保管期間についても見直す必要があります。
医療機関が保有している債権,また医療機関が負う債務には様々な種類のものがありますが,今回の法律コラムでは,日常的に発生し適正管理が強く求められる診療費請求権,また医療機関が患者に対して負うことのある医療過誤による損害賠償債務について,時効期間の見直しや,これら債権・債務に関連する書類の保管期間についてご説明します。
2.民法改正が与える影響
(1)診療費請求権
前述のとおり,診療費請求権の時効期間は,一般的な債権と同じと定められました。
具体的には,以下のいずれかのうち早く到来した時に時効期間が満了します。
(ア)医療機関が権利を行使することができることを知った時から5年
(イ)医療機関が権利を行使することができる時から10年
こと診療費請求権に関しては,「権利を行使することができることを知った時」と
「権利を行使することができる時」は一致することが通常ですので,消滅時効期間に
ついては,権利行使が可能となったことを知った時/権利行使が可能となった時から
「5年間」と整理しておくべきと考えます。
以上のことは医療機関が患者に対して有する診療費請求権に関する説明ですが,保険
医療機関が社会保険診療報酬支払基金や国民健康保険団体連合会から支払を受ける「診
療報酬」に関しても,これまでは,「医師・・の診療に関する債権」として時効期間3
年と考えられていました[2]。民法改正により,診療報酬請求権についても,診療費請
求権と同じように時効期間は「5年」と整理して対応するのが良いと考えます。
(2)医療過誤による損害賠償債務
患者が医療機関や医師に対して医療過誤を理由に損害賠償請求する場合,以下の二つ
の法律構成があり,いずれの構成をとるかは患者側が自由に選択することができます。
①診療契約に基づく債務の不履行があったとして,債務不履行に基づき損害賠償を請
求する
②医師の負っている注意義務に違反したとして,不法行為に基づき損害賠償を請求す
る
旧民法では,①の時効期間については10年(旧民法167条1項),②の時効期間につ
いては「損害及び加害者を知った時」から3年,また不法行為の時から20年を経過した
ときにも権利行使ができないとされていました(旧民法724条)。
法律構成によって時効期間に差が生じることは合理的ではありませんので,改正民法
では,人の生命または身体の侵害による損害賠償請求権の消滅時効は,①債務不履行
(民法167条),②不法行為(民法724条の2)のいずれであっても,同じ時効期間が
定められ,債務不履行又は不法行為責任について,それぞれ以下のいずれかのうち早く
到来した時に時効期間が満了するものとされました。
債務不履行:権利を行使することができることを知った時から5年
権利を行使することができる時から20年
不法行為 :損害及び加害者を知った時から5年
不法行為の時から20年
(3)適用時期
施行日(2020年4月1日)以前に生じた債権(施行日以後に生じた債権でも,その原
因となる法律行為が施行日より前にされたときも含みます)の消滅時効の期間は旧民法
によりますので(附則10条4項),改正民法による新しい時効期間が適用されるのは,
施行日以後に締結された法律行為に基づいて発生した債権となります。
3.各種書類の保管期間を,どのように設定するか
医療機関では,院内規程により各種書類の保管期間を定めていることが多いと思われます。保管期間の設定にあたっては,私見では,以下の(1)及び(2)の観点から検討することが適当ではないかと考えます。
(1)法令で定められた保管期間
医師法,医療法,療養担当規則などの各種法令で保管期間が定められている書類は,
最低限,その期間は保管しておく必要があります。保管期間を設定するにあたっては,
少なくとも当該期間は確保した上で,次の(2)の観点から,より長い期間を設定する
必要がないかどうかを検討します。
医療機関の例ではありませんが,書類の保管において(2)の観点が欠けていたため
に,(1)法令で定められた保管期間を経過した書類を廃棄したところ,その中に,未
収の債権に関する書類が含まれており,債務者が作成した債務承認書(これによって時
効期間が中断する―改正民法では「更新」される)も廃棄されてしまい,時効中断の事
実を立証できなくなったというケースもあります。そのため,次の(2)の観点からの
検討は必須であると思います。
(2)将来,資料として利用する可能性
①民事的な請求権の存否を検討する際に,利用する可能性がある資料
(ア)診療費請求に際して利用する可能性がある資料
医療機関が患者に対して診療費を請求する際には,請求権の存否を争われた場合に
備え,根拠資料として診療費に関連する書類が必要です。従って,このような根拠資
料は,請求権が存続する可能性のある期間(時効期間が満了するまで)については保
管しておくことが適当です。前述のとおり診療費請求権の時効期間が3年から5年に
変更されますので,民法改正を踏まえ,診療費に関連する書類の保管期間も,それに
合わせて変更しておく必要があります。
それでは,既に回収した診療費に関連する資料は,(1)の期間を超えていれば,
直ちに廃棄して良いでしょうか。実際の例として,患者の家族から,何年か前に支払
った差額ベッド代について,患者も家族も同意していなかったから返して欲しいとい
う要請を受けたものの,その当時に得ていた筈の「同意書」が見当たらない,という
ケースがありました。このように既に診療費を回収したからといって,将来,返還請
求を受ける可能性はゼロではありませんので,このような事態に備えて回収後も一定
期間は関連書類を保管しておいた方がベターではありますが,保管の費用と手間がか
かりますので,この点を勘案して,将来の備えのために書類を保管しておくかどうか
を判断することになります。
(イ)医療過誤に基づく損害賠償請求を受けた場合に利用する可能性がある資料
最も重要な資料は診療録ですが,近年は電子カルテが採用されていることが多いの
で,紙書類の保管期間について悩むことは以前より少ないかと思います。しかしなが
ら,電子カルテのデータの保存期間をいつまでと設定するのかという問題もありま
す。
前述のとおり,改正民法では,人の生命または身体の侵害による債務不履行責任の
損害賠償請求権の消滅時効は,権利行使することができることを知った時から5年,
権利を行使できる時から20年とされましたので,そのような請求を受ける可能性が否
定できないことを考慮すると,診療の終了時点から20年間は保存しておくことが望ま
しいと言えます[3]。もっとも,紙の診療録を全て20年間保管しておくことは保管費
用も嵩みますので,例えば,トラブルのあった患者や死亡退院した患者については,
将来紛争になる可能性があるので,このような患者の診療録に限って診療の終了時点
から20年間とするといったルール設定も考えられます。
②患者や厚生労働省などから,資料提供を求められる可能性がある資料
最近も,旧優生保護法に基づく優生手術について,国が医療機関等に対して優生手
術の個人記録の有無について調査を行いました。このように,法令で定められた保管
期間を経過していてもなお,関係機関や関係者から資料提供を求められることがあり
ます。提供を求められる蓋然性の高い書類については,公益性という観点から,書類
提供に応ずることができるよう保管するのかどうかを検討しておくことも必要と考え
ます。
4.規程や院内ルールの見直しにあたって留意すべき点
以前は紙ベースで作成していた診療録その他の書類も,現在は,電磁的記録(電子データ)として作成・保存し,紙ベースでは作成していないか,作成していても電磁的記録(電子データ)の方が使い勝手もよく,紙よりも電磁的記録の方が大切である,ということが往々にしてあります。ところが院内規程では,従来の紙ベースの「書類」「文書」についてしか規定しておらず,(電子カルテ以外の書類に関する)電磁的記録は,各部署で各担当者が区々の期間でしか保存していないというケースもあります。
重要な電磁的記録が,保存期間のルールが定められていないために削除されてしまったということのないように,電磁的記録の保存期間についても併せて規定しておく必要があると思います。
因みに,民法改正を契機に,労働者が雇用主に対して有する賃金債権についても時効期間を見直すべきではないかという問題意識から,2017年12月以降,厚生労働省労働基準局で「賃金等請求権の消滅時効の在り方に関する検討会」が開催され,賃金債権の時効期間の見直しや賃金台帳等の書類の保存期間の見直し等について検討が行われています。労働基準法115条が定める時効期間(賃金等は2年間,退職手当は5年間)を見直すべきという意見に対しては反対見解もあり,現時点では検討会での結論は出されていません。賃金台帳など人事労務関係の書類の保管期間にも影響がありますので,今後の議論の行方を見守る必要があります。
5.最後に
当事務所では,書類が保管されていなくて「困った」というご相談を受けることが多くありますが,このような事態に陥ることのないよう,予め,院内規程やマニュアルを整備しておくことが肝要です。また,せっかく院内規程を作って保管期間を定めて書類を保管していたものの,建物の引っ越しや倉庫の変更に伴い,一部の書類を紛失してしまった,誤って廃棄してしまったというケースもありますので,実務運用も徹底することが求められます。
民法改正は,書類の保管期間,電磁的記録の保存期間や実務運用を見直す契機であり,各医療機関において,(改正民法の施行される)2020年4月1日までに取り組むべき課題であると言えます。
以上
[1] 2017年4月以降に始まる事業年度から,一定規模以上の医療法人において公認会計士又は監査法人による会計監査制度が導入されたことも背景事情にあるようです。
[2] 時効期間をカウントする始期については,「各月分について翌月10日までに診療報酬請求書を提出し,保険者において,その月の20日までに審査を行なつたうえ,翌月末までに支払うこととなっているものである」ことを踏まえ,「診療を行なった日の属する月の翌々々月の一日が時効の起算日となる」とされています(昭和38年1月18日保険発第7号の2各都道府県民生部(局)長あて厚生省国民健康保険課長通知)。
[3] これまでの裁判例では,長期間が経過して初めて健康被害が顕在化したり原因が判明するようなケースなどでは,時効期間の始期を柔軟に解釈するなどして被害者を救済しています。診療終了時点から20年が経過すれば全てのケースで時効期間が満了するとは必ずしも言い切れませんが,保管期間に関する一つの目安になろうかと思われます。